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​少林寺拳法について
少林寺拳法とは

■1947年(昭22)開祖・宗 道臣(1911~1980)が

香川県多度津町で創始した日本の武道(日本武道協議会 加盟 9団体の一つ)

・厚生労働省麻薬取締部(通称:麻取)が逮捕術の一環として取り入れている

・インドネシアでは、多くの国民に受け入れられている。

香川県多度津町が少林寺拳法発祥の地となる
 少林寺拳法が創始されるまでの背景と歴史

■1931年:「生きている間は死にはせぬ」

前年に一度帰国し、1930年に各務原にある飛行隊に入隊。

しかし、翌1931(昭和6)年、心臓弁膜症と診断され除隊。

当時としては平均余命1年半という重病であった心臓弁膜症を患いながらも、

再度中国に渡り特務機関として危険な仕事に従事。
危険な仕事に進んで従事している宗道臣を見て、自暴自棄になっていることを悟った陳良老師から、

「お前が一年以内に死ぬと誰が決めた?天命は、人間の計り知ることのできぬ妙理である。生きている間は死にはせぬ」

と説かれ、「生きている間は死にはせぬ」は、宗道臣の“死生観”となった。

旧日本軍の飛行隊時代

■1947年:人を集める手段が後の少林寺拳法となる

​当初は片っ端から、『人としての道』を説いて祖国復興に役立つ人間を育てようとした。

しかし、暴力が横行していた当時の若者は理想論だけでは付いてこなかった。
そんな中、旧日本軍の特務機関の任務で中国大陸に渡った際に学ん
だ武術の知識をもとに、
若者たちを集め、自らの理論による独自の拳法をあみ出
”自己確立””自他共楽”を主とした

”人づくりの教育システム”「少林寺拳法」 と命名した。
これが香川県多度津町に少林寺拳法が誕生した瞬間だった。

香川県多度津町に少林寺拳法が誕生した際

■1911年:​岡山県作東町に生まれる
創始者、宗道臣の幼少期は、義父が母に暴力をふるう様を直近にみており、

「力がなければ母を救うことはできない」

など悔しい思いをしたり、事件犯人の濡れ衣を着せられたりと波瀾万丈な幼少期を送る。

開祖宗道臣が生まれた家

■1925年:武道との出会い

14歳の時、中国北東部(旧満州)に住む祖父の元へ移った宗道臣。

祖父 は、剣道、槍術、柔術に精通しており、これが宗道臣と武道との初めての出会いだった。

柔道場の写真

​■1927年:家族の死

同時期に実母と妹2人、そして武術の師匠でもあった祖父が亡くなる。

特に、妹たちの死は強烈な無力感となって宗道臣を襲った。

宗道臣の家族

​■1928年:各派の老師と出会う

17歳で旧日本陸軍に入隊した宗道臣は、 特務機関(特殊軍事組織)として中国大陸に渡り、

各地を訪れる道中で、 陳良老師、文太宗老師など、各派の老師と出会い武術を学ぶ。

旧日本陸軍の特務機関時代

​■1936年:中国河南省”嵩山少林寺”で見た白衣殿

中国河南省”嵩山少林寺”にある、白衣殿(=観音殿)の壁画に描かれているのは、

インド人僧侶と中国人僧侶が楽しそうに拳技を修練している姿である。

「相手を敵だと思え」

という考え方の対極であることに宗道臣は衝撃を受けた。このインスピレーションが後に、

少林寺拳法の修行法である組手主体(2人で共にレベルを高め合う)の原点となった。

嵩山少林寺の白衣殿の壁画

■1945年:敗戦

当時旧ソ連軍政下の中国東北部で敗戦を迎える。

翌年、帰国後に秩序がない不正と暴力がまかり通っている日本の姿を目の当たりにし、

日本の復興と再建には人として正しい考え方を持った”リーダーたち”が必要だと悟る。

1945年の敗戦時
宗道臣(そう どうしん)
宗道臣

■少林寺拳法創始者 宗 道臣 経歴

  • 1911(明治44年)2月、岡山県作東市作東町
    (現、美作市)生まれ。

  • 17歳の時、中国に渡り、大陸を駆け巡る。

  • その間、縁あって嵩山少林寺の流れを汲む、文太宗老師の知遇を得てその門に入り各種の拳技を修得する。

  • 中国東北(満州)の地で敗戦を迎え、ソ連軍政下で1年を過ごす。

  • 敗戦直後の極限状況下で、人間の赤裸々な行動を目のあたりにし、法律も軍事も政治の在り方もリーダー となる「人の質」にあることを確信する。

  • 真の平和を達成するためには、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を育てる以外にないと決心する。

  • 1980(昭和55)年5月、逝去。

【少林寺拳法創始者・宗道臣の志を辿るドキュメンタリー】
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